ドラマチックなイタリア的コミュニケーション(Milano)アルク「chance.」掲載

2001年2月14日


mangiare(食べて)、cantare(歌って)、amare(愛して)……が、大得意なイタリア人。ニューヨーク在住時から、なぜかそんなイタリア人と縁があった私は、とうとうこの国で住み始めてしまった。
 普段は割と地味でふつうの女の子でも、夕方に誘い出すと、胸元が開いた華やかな服装に、目の辺りを強調したメイクをして、フェロモンを巻き散らして出てきてくれる。そして、満面の笑みを浮かべて、賛美の言葉を待っている。野暮な日本男児であるところの私が、賛美の言葉を忘れていると、「sono bella?(私、奇麗かしら?)」と屈託もなく聞いてくれる。これで、こちらも賛美の言葉を出しやすくなる。「奇麗すぎて心臓が止まりそうだよ」などと言っても、イタリア人女性は決して驚いたりはしない。ちょっと照れた振りをするだけで、むしろ、一層きらきら目を輝かせ始める。もう一度、賛美の言葉を聞きたくて「えっ? 今なんて言った?」などと、よく聞こえなかった振りをするときさえある。
 このような女性たちに教育されて、イタリアの男性はロマンチックで情熱的に育つのではないかというのが私の推論である。
 そんなイタリア人女性は、家族内で大権力を誇るmamma(お母さん)を手本として母性的になっていく。彼女らは少女的な可憐さはないのだが、母性的な深みがあるのだ。
 しかし、イタリア人男性を立派にロマンチックに育て上げたイタリア人女性でさえ、彼らのだらしなさを止めることはできないらしい。だれと構わず、美しい女性には、賛美の言葉を浴びせかけるのが、一種の挨拶だと思っているイタリア男も少なくないようで、銀行の窓口、タクシーの中、道端ではもちろんのこと「今度、一緒に出かけよう」と誘われた日本人女性の話もよく聞く。
 なんでも言葉にするのが、イタリアの流儀。太陽エネルギーが強い地中海らしく、とりあえず胸の中にあることを外に出し、明るい日にさらす。そして、その言葉の意味はあとで考える。想って、考えて、そしてやっと言葉にする日本人とは思考回路が逆なのだ。
 イタリア人男性に誘われ、ロマンチック攻撃に打ちのめされた日本人女性が、彼に他の彼女がいたのを後で発見したなどという話はよくある。そして、この手の男は味をしめて、次から次へ日本人女性と付き合っていったりする。ロマンチックな言葉の裏にある、真実の意味を見極めなくてはいけない。
 たとえば、「永遠に君と一緒にいたい」と言ったとする。それが決意である必要はまったくなく、その瞬間はそう思っただけで、その思いにも嘘はなかったというのがイタリア語的感性。ドラマチックな生き方をよしとする文化では、自然とこういう思考回路、表現方法になってしまうのかもしれない。
 自己表現をすることもあまり必要とされない恥じらいの日本文化と、おおぴろげで色気を隠さないイタリア文化。しかし、イタリア人のほうは恥じらいを学び、日本人のほうは自己表現を学び、両方ともバランスがとれて、なにげにうまくやっているイタリア人と日本人のカップルもたくさんいる。
 イタリアと日本、自己表現ではまったく逆の文化なのだが、両文化とも人情に流されやすいという特徴がある。こんな共通点があるので、恋愛関係も成り立つのだろう。




<プロフィール>
仁木岳彦
29歳、未婚。フォトグラファー。北海道出身。函館ラ・サール高校、上智大学新聞学科卒業。1994年にニューヨークに渡る。30余国を旅し、次の居住地をイタリアに定め、2000年からミラノ在住。若僧フリーランサーにありがちながら、随時、仕事募集中。http://www.geocities.com/nikitakehiko



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