ダライラマの話(N.Y.)

1999年8月15日

今日、ダライ・ラマが昼の11時からセントラルパークで講演をするというので、行って来た。

最寄りの地下鉄の駅から少し歩くと、セントラルパークの緑のしげみの中からチベット仏教のお経が聞こえてきた。歩道からあふれるくらいの群衆が同じほうに歩いていた。黒人、白人、アジア人などの人種を問わず、とにかく圧倒的に若い人達が多かった。ロック歌手の野外コンサートに向かう群衆と言った風情だった。

無料だからというのもあるんだろうけど、とにかくたくさんの人が来ていた。ニューヨークタイムズは2万人の人出が予想されると報じていたが、実際には4万人くらいの人が来ていたらしい。

会場に着くと、チベット僧がお経を上げているのが巨大スクリーンに写し出されていた。実際の舞台そのものは群衆が邪魔をして見えなかった。中には瞑想状態に入ってしまって微動だにしない人達も、何人か見かけた。そういう人達はみんななぜか決まって白人だった。

ダライラマは「私は宣教に来たのではありません。あなたの文化がもつ伝統を守ることは大変、大事なことです」と言うような事を、良く言う。攻撃的、もしくは支配的なところがまるでないので、異文化の人間も安心して彼の話を聞くことができるのだと思う。

今回の訪米は俳優のリチャードギアがスポンサーとなって実現したらしい。お経が終わると、舞台にリチャードギアがまず出てきた。本当に非常に短い挨拶とダライラマの略歴を述べると、すぐにダライラマを紹介した。みんな総立ちで彼を向かえたのだが、彼が話し始めると何となく群衆が座りはじめて「sit down,please」と何人かが叫ぶと私の前あたりまでの人達がみんな座ってくれた。今まで全く見えなかった舞台がすーっと見えた。私の小指くらいの大きさのダライラマが見えた。すると、隣にいた正装したチベット人が、おもむろに頭を地に平伏しはじめた。

彼の隣に通訳が居るんだけど、自分が分からない英語の単語があるとその人に聞く程度で、ほとんど自分で英語で話していた。"I am sorry for my poor English"と言いながらも、なるべく分かりやすく話している様子だった。International Spiritual Leaderという感じだった。
中国のチベット侵攻で、祖国を奪われ亡命せざるをえなかった事もあって、いやがおうでも彼の視野は広くなっていったんだと思う。祖国を去ったぐらいから、地球規模の発言して行かなけれなならないという彼の新しい使命が始まったのだろう。平和にチベットに留まっていたら、単なる小国のリーダーに過ぎなかったかもしれない。

彼の大きな特徴は、その大変な境遇にかかわらず、びっくりするくらいの楽観主義者だということだ。「対話をもてば必ず分かり合えるはずだ」とか、もし私が言ったなら馬鹿みたいな単純な事でも何の照れもなく言ってしまう。彼ぐらいの境遇の人が言うと、なぜか説得力がある。

一人一人の可能性についても言ってた。物質的な発展だけではなく、一人一人が心の中の発展を考えれば、全員が平等に大きな可能性をもっていることを強調していた。
国境というか国という概念についても、「地球を宇宙からみたら、とても小さな星でしかない」という、最もわかりやすい例を持ち出して説明していた。国境であるとか、戦争、暴力的な感覚というのは、時代遅れだと指摘していた。

「隣人を愛と尊敬と許しをもって見よう」などと、ちょっとキリスト教っぽい語彙を使ったりもするけど、「誰かが自分を有利な立場から利用しようとしても、させておけばいいのだ」と付け加えるととても仏教的な思想になってしまい、一瞬弱々しくもみえる彼等の無抵抗による挑戦というのが、実はとてもパワフルであるようにも感じられた。

徹底的に受け身な自分たちの思想に自信を持ちながらも、歯がゆさのようなものを感じているのか、物事を進めるには実際的でなくてはならないと言って、マザーテレサのことをとても評価していた。自分は色々な場所へは行くけれども、ただ話しているだけなので、空虚であると謙遜していた。 あと、執着と欲望はよくないとか、富めるものが居るのはいいけど、貧しいものを助けなけれならないなどなど、とても当り前のことも言っていた。
何のshow的要素もなくただ彼は座って語っていただけだったし、拍子抜けするくらいに当り前の事の羅列だった。しかし、「受容と肯定と楽観主義」という事に筋が通ってて非常に大きなメッセージを聞いたような気がした。奇をてらわず、静かに当り前のことを淡々と大観衆の前で話す姿が、かえって彼に対する信頼を大きくした。

あと、イタリアのアッシジにあるキリスト教のフランシスコ会の人達との対話をもつプロジェクトについても、多少触れていた。
意見が違ったり、違うものを信じる人達と対話をもつと言うのは、凄いことだと思う。違うというだけで「恐い」と言う感情が起こしがちだと思う。違うものを信じる相手に影響を受け支配されて、自分が消えてしまうのではないかと言う「恐れ」が、攻撃的な態度に結び付くことが、多くある。そういう自分に対する自信のなさ、または恐れを克服できないと、違うものを信じる人と平和で深い対話をもつことはできないだろう。
キリスト教の修道士が、チベット僧から瞑想を習ったり、チベット僧が聖書を読んだり色々新しい動きがあるらしい。

宗教に敬虔であることは決して悪いことではないが、敬虔である必要もないような事も言ってた。どっちの祈り方が正しいとか、そんなことで争うくらいなら、宗教に敬虔でない方が健全だと私も思う。

2時間近く、ダライラマは、ひたすら話した。ノートをとりながら聞いていた人もいたし、目をつぶって聞いていた人もいた。しきりにうなずきながらダライラマの世界に入っていた人もいたし、涙をながしながら聞いていた人もいたようだ。途中、近くにいた赤ちゃんがギャーギャーと大きな声を上げて泣きだしたりしたけど、その泣き声も、なぜか邪魔でないような、むしろその泣き声が心地よい様な変な雰囲気があった。

日曜にしては、ちょっと早起きしたけど、いろんな人種の人達と何かを共有できたような気がして、行って来て良かった。ダライラマ自身も、白人や黒人、中東の人やらアジア人など、多様な人達に向かって話すのは気持が良かったに違いない。多様な人種が、それぞれの伝統を守りながら、カオスのまま暮らしているという実験都市を眺めるのは楽しいと思う。講演をする場所をニューヨークだと決めたのも、そんな理由もあるのかもしれない。確かにここに居ると、国境とか人種とか宗教とかを、みんなが、いずれは超えられるような気にもなってくる。





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